汚れちまえない悲しみに・・・

ブログに関する雑感
http://d.hatena.ne.jp/noon75/20060626/1151340422

  id:noon75、ただのセックス侍かと思っていたら、良いこと書くじゃねえか。

議論とは、お互いの見解の相違を確認することが目的でなされるべきものだが、ブログにおける議論は実際にはそうなっていない。見解の相違どころか、ただの中傷合戦で終わっていることがほとんどで、論客Aと論客Bの意見の相違点が浮き彫りになるような議論というのはほとんど見たことがない。私見では、そういった読むに値しない議論をする人々の頭の中には、相手は自分と同じ人間なのだから、努力すれば相手の主張は理解できるし、自分の思いも説明することができるのだ、という無根拠な思い込みが存在しているように思う。

  「見解の相違の確認ができない」について。もう何度となく繰り返されては、ひっくり返されては、蒸し返されている考えを書くね。

  要するに、見えない相手に向かって、文章でヤリトリするからだと思う。例えば、歌田明弘という人間に対して、ブログの閉鎖されたコメント欄をこじ開けて議論を始めて、歌田明弘と言う人間が議論に応じるとする。さて、私に、歌田明弘という人間は見えているだろうか?ユリイカの元編集長(だっけ?)、週刊アスキーに連載している人、職業:ジャーナリスト。実名を発し、属性も語る(騙る?)人間だということは分る。でも、結局、分るのはそれだけであり、歌田明弘という人間は見えていない。

  「なんか難しいことを抽象(中傷?)的に書いていてわからんよ!」という人も居るでしょう。何故、私は、小難しく書いているのか?答えは簡単。簡単すぎて、言葉にするのが恥ずかしいから。

  文章での議論。相手の仕草、表情が読み取れないから、「見解の相違が確認できない」のだと思う。・・・書いていて恥ずかしくなったよ(´・ω・`)


  さて、もう一つ。「相手は自分と同じ人間なのだから、努力すれば相手の主張は理解できるし、自分の思いも説明することができるのだ、という無根拠な思い込み」。これは、人間の優しさ、というか人間のサガだと思います。相手を分りたい、相手に思いを伝えたい。多くの人間は、そう思っているでしょう。

  結論。文章vs.文章という平面世界において、人間のサガが成立可能かどうか?という壮大な実験が、web2.0世界で行われており、人類が”言葉の神様”に試されているのではなかろうかね?って、薄暗い曇天模様を見上げながら思いました。

(本稿以上)