どんっ!と来たね、現実世界にさ。

※言葉足らずな部分について、追記・修正を行いました。文脈的に重要と思われる部分は、取消線で履歴を残しています(2006年6月3日、6:26頃)
※本稿は、敬称略で書かせていただきます。


  村上世彰率いる村上ファンドが新聞紙面を賑わせている割には、日経平均株価の下落率が低くて、「またまた外人さんが拾っているよね!」と思った私です。さて、この辺の詳しい状況分析については、サイトにて無言を貫くR30が、そろそろ黙っていられなくて、とても詳しい分析エントリをアップしてくれるでしょうね、と思ってスルーすることにして。

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  「ことのは騒動」、というか「歩き出した言葉の騒動」は、えらいこっちゃになってり、ビックリしていますね。そもそもR30が発した次の言葉。

R30 :それって、「戦争をなぜ日本が起こしたのか、お前は靖国に行って参拝することをなぜ反省しないのか」と未だに言われてる話と構造が全く同じで、「いや、私はそこまで考えていませんでしたよ」というのと、ほとんどレベル的には同じですよね。

松永英明さんへインタビュー ⑤

という自分が発作的に閃いて、発作的天啓に神憑った(と私は考えている)R30の、松永インタビューの結語、これは、R30がインタビュー中で発作的に閃いて、神懸かったまま、次の言葉、

R30 :「私はそうは言えません」というレベルにあるならば、逆に言うともう、これってアジアと日本の戦争責任問題と同じだぞと。日本人って実はアジア人からこういう風に見られてるんだぜ。それって俺たちがオウムってことなんだぜ。と言うしかないんだよね、そう思う。

を発して、インタビューの締め括りの言葉となったと思ったものだけど。この言葉。なんだか、ノタリノタと歩き始めて、下記の佐々木俊尚の言葉に引き継がれちゃった。

私がR30さんのこの発言を読んだときに感じたのは、多くの批判者が書いている「オウムと日本国民を一緒にするな」という身も蓋もない批判、反感ではなかった。実のところ、R30さんの言説は、単なる脊髄反射的な感想にとどまらず、非常に重要な意味を含んでいるように思えた。彼の意見から私が受け止めたのは、「オウム」や「大日本帝国」という被害を与えた側の認識のあり方の問題ではない。そうではなく、オウムや大日本帝国から被害を受けた側――つまり大日本帝国に侵略された中国や韓国と、オウムによって生命の危険を感じた日本国民の側の認識のありかたの問題だった。

「ことのは」問題を考える

ここまでは、まあ、誰も見ないネットの世界で広がる仮想現実だし、「べつにイイヨネエ」って思った、ところがドウダイ。歌田明弘というドコのダレぞか、無知なる私に寡聞である人物が、現実世界にて、

われわれはみな「隠れオウム」の容疑者

 「事件を起こしたオウム関係者はコウベを垂れて贖罪の人生を歩むべき」という事件後のオウム信者に対する世間一般の期待からすれば、明らかにそうすべきだろう。しかし、そうするのが望ましいとはいえても、そんな法律はないし、押しつけることもできない。今度のように、その正体を追及するジャーナリストが現われて、思いがけず明らかにすることがなければ、とくにブログのような場所ではそれですんでしまう。


てな、ことを現実世界の週刊アスキーという媒体で書いてしまった。*1

週刊アスキーhttp://www.ascii.co.jp/


言葉はノタリノタと歩きながら、確実にネット世界というちっぽけな世界から、本屋にてのチッポケ場である「アスキー」に歩き出しちゃったようだね。


  で、面白いのが、先日も触れたガ島通信「「デジタル・ジャーナリズム研究会」連続討論スタート」の、燦然輝く参加者を引用すると、

ジャーナリストの佐々木俊尚さんが運営の中心で、ジャーナリストの歌田明弘さん、ダンギルモアの「ブログ 世界を変える個人メディア」を邦訳した平さん、御手洗さん、徳力さん、R30さん、さん、オーマイニュースの方、出版社の方など15人が集まりました。


うへぇ〜〜〜。勢ぞろいじゃん!!もしかすると、この愉快な面々さんたちの仕業だろうかね?



m9(`・ω・´)



■結語
  さて、引用ばかりして、一体ナニを言いたいかっていうと、R30佐々木俊尚歌田明弘って、R30言葉を発する、あるいは引用拡大することによって、本質を隠してはいないかね?ってこと。正直、市民ジャーナリスト(自称だよね?)の泉あいから、問題の核心をそらそうとしているのではないかな?って思うんだよね。そのへん、どうよ?

(本稿以上)

明日は、ジャーナリズムについて語ります。

*1:引用は、ちっちゃなネット世界から。同じ内容(一字一句を確認してはいないけど)が、「週刊アスキー」という雑誌に掲載された。らしい。