言葉の終焉

嵐の闇夜を抜けると、
五月晴れの朝だった。
しかし、吸い込む煙草の味は、ほろ苦い。

仕事が全然おわんない。なのでしばらくブログ封印します。ブクマには「あとでコメント」ネタがたまっていってるんだけど…。

R30::マーケティング社会時評「ブログ封印」(5月25日、3時47分)より

繰り返そう。

言葉を弄ぶ者は、言葉に取り憑かれる。発せられない言葉が、体内に滞留する。言葉は体内を蝕む。言葉には色々ある。色もある。


繰り返そう。

言葉は歩いている。ちょっと、広がる世界で歩いている。


−−−

  さて、R30氏が「ブログ封印」という上記エントリを記した。彼は、立ち止まったのかもしれない。文字通り、仕事が全然終わらない、という現実に対峙しているのかもしれない。いずれにせよ、落ち着いて、無用な言葉を発するのは止めること、私は正しいと思う。*1


古今和歌集」の仮名序は、

和歌は、人の心を種として、万の言の葉(ことのは)とぞなれりける。

で始まる。怒り、恨み、悔しさ。負の感情で発する言葉は、怖ろしい呪詛を纏う。発する者が意識せざるとも。汝、言葉を侮る無かれ。これは、常日頃から自分への戒めている、「言葉」でもある。



言葉が歩いているのは事実だ。

「ことのは」問題を考える(魚拓)

オリジナル・テキストを離れた、言葉なのかもしれない。


歩き出した言葉。
オリジナル・テキストは、遠く離れてしまったのかもしれない。

いずれにせよ、言葉は歩いている。


R30氏へ
R30氏への感想。「インタビュー」及び「火中栗」では、出会い頭の事故に遭遇したのかもしれないと思った。まだ、結語を入れていない、湯川鶴章氏と同じく。しかし、「楽屋裏」及び、彼のブックマークコメント欄で、私の印象は変わった。正直、悲しかった。どっかで書いたろう。「いつか、燻ぶった平原から、再び実りが生まれるかもしれない。」、と。その気持ちは、今でも持っている。あなたを、待っているのかもしれないね。

でわ。


(本稿以上、言葉も以上)

*1:ここで言う無用な言葉とは、自らが発した言葉への言葉だ。それは、「体内を蝕む」言葉ではないと思う。本当かどうか、知らない。