ブクマコメントを侮る無かれ、だよ。

  さて、幾つか魚拓に保存した。もちろん壊れかけた私が抱える、壊れかけたパソコンさんのローカル部分にもだ。ま、四畳半和室に据えられたパソコンさんなので、頼りにならないというのが、これ現実。

  さて。反省なき者。言葉を溜め込んでいる者は、誰だろうかね?早いうちに、話すことがあるならば、話してしまった方がいいと思うよ。私もね、素敵な女性に対して、「好きだよ」って、囁きたい。囁けない。難しいよね。でも、話してしまったり、囁く方が、これからの自らを考えると、益になると思うよ。俺もな。


[ことのは騒動] 追記
  私は、「消された傷跡、あるいは刻まれた悔恨、あるいは残された廃屋」というエントリを書きました。それに対して、コメント欄で幾つか指摘を受け、それをキッカケに自らの記憶が蘇りました。それを反映する形で、本エントリを書きます。「その一部」を反映させる形で、エントリを書いた、私、雨蛙ケロ助です。



  さて、湯川鶴章氏の「泉さんのエントリーを削除した件について 」というエントリを引用しました。これに対して、「なんか、違ったエントリの内容だったぞ!!」と私は述べましたね。それに対して、コメント欄で有益な情報を得ました。これが、草の根の「参加型ジャーナリズム」ですかね?


  さておき、元のエントリ原文は、「説明の続き 」というものでした。私の記憶にも残っています。そして、私が、現時点で確認しうる限りでは、「説明の続き」(旧)から、「泉さんのエントリーを削除した件について 」(新)へのエントリ本文にブラ下がる、いわば魑魅魍魎(私も含む)なるコメンテータのコメントは、継続されているようです。そこが、「参加型ジャーナリズム」の旗手であるところの湯川鶴章氏の偉大なところでしょう。この、書き換えられたエントリ。プンプン臭うぞ!という向きもあろうかと思いますが、私は、構わないであろうよ、という立ち位置です。これは、前回、私が記したエントリと同じ気持ちです。変節はありません。


  さて。以上での「追記」をもって、私における「ことのは騒動」は終わりです。だがしかし、当事者である人々(この定義は、後日述べます)の言に、甚だしき疑問と憤りを感じてしまった私です。別のカテゴリを作って、世間一般ではなくて、ネット世界でもなくて、ネット世界のチッチャナ片隅の「ことのは騒動」について言及します。私の憤り。=私憤というのが正しいかもしれません。で、「ことのは騒動」のドノ部分について、”私憤”を感じたのか、についても、後日述べます。いずれにしても、私の姿勢に対して、「言葉の神様」に言わしめると、変節でアルと断ぜられるかもしれません。それについては、覚悟しています。


(本稿以上)