web2.0と電車男
先日、『web2.0という言葉が、局地的に独り歩きして居ますね。なんだか、ひと頃の「電車男」という言葉のあり方と同じように感じてしまいます。』なんて、酔っ払った勢いで書いたのですが、再び、酔っ払った目から見ますと、「なかなかに慧眼であるな!」って、自画自賛で思ったので、メモ代わりにメモって置こうと思います。まずは共通項から。
実世界では口に出したくない言葉である。
今では違うかもしれませんが、ひところは「電車男」なんて、知っていても口に出来なかったと思います。知っていること=2ちゃんねる”参加者”であると思われたりして。今では、ドラマになったりして、「デンシャオトコ」と口に出しても、平気な世界になりましたが。「はぁ?いまさらなんで、電車男?」って笑われるかもしれませんけど。
それと同じ構図が「web2.0」に、感じられてしまう。例えば、会社で、「web2.0的には、こちら側ではなくて、あちら側で構築するべきですよ」とか、「Googleって凄いッスよ!少なくとも情報世界では、世界国家を樹立していますよ!」なんて、とても言えませんよね。私も、会社内で、web2.0云々という言葉を耳にしたことがありません。web0.2くらいな会社かもしれませんけどね。次に、
オープンな環境で、大衆が参加することにより成立すること。
これは梅田望夫「ウェブ進化論」を読んだ方には、当たり前の”真理”(テーゼ)ですよね。で、振り返ってみると、一世を風靡して化石化して、死語になったかのような「電車男」という本なりその他も、早々とその土俵で活動していたわけです。2ちゃんねるという魑魅魍魎がはためくような空間で、「よし!次はコウしろ、アアしろ!!」って、オープンに、不特定多数のアドバイスを受けて跋扈した電車男。もちろん、2ちゃんねる上での”アドバイス”が「群集の叡智」であったかどうかは、わかりませんが。。。
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ここからは、web2.0が過渡期であり、「電車男」が過去の遺物であることから、簡単に比較して結論を出すべき話題ではないのですが。web2.0の将来を考えるために、「電車男」を簡単に考えてみましょう。私なりの電車男の総括です。
- ネット発の”物語”というギミックに依存
- 表層を剥いてみると伝統的な”物語”の構図
- ビルトゥングス・ロマン
- 弱者が強者に成り上がる英雄譚
- ベタベタの純愛物語
- 「恋愛ゲーム」の文字化
- ファンタジー
電車男が、「フィクションである」、「いや、ノンフィクションである」という局地的な論争、あるいは”嵐商事”なる心中吐露の暴走は過去の話。実際の話であるか否かを問い、検証すべき時期は過去のもので、現象として残置され、風化された「電車男」とは、非常に単純明快な”物語”であったと思います。
web2.0も重なって見える。「ウェブ進化論」が、諸手を挙げて迎えられて、実世界にweb2.0という概念・現象を持ち込んだ。しかし、しばらくした現在、「ちょっと楽観的に過ぎないかね?」という批判的な論調の火の手が上がりはじめた。未来はわかりませんが、果たして、web2.0は”物語”となるのかどうか?ちょっと気になる私です。
(本稿以上)