開き直らぬ潔さ(←”イサギヨサ”と読む、みたいですよ!!)

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)  ネガティブ・ワードが、氾濫している。

  鮮度が落ちた気もする「負け犬」しかり、今が旬なる「下流社会」しかり。言霊に霊験あらたかなる感度を持つ人間ならば、顔をしかめて禁忌する言葉だ。なんて、しかつめ顔してムキになると、嘲笑の的になってしまうところが、これら言葉のミソであり・・・。


  まずは、負け犬という言葉。酒井順子「負け犬の遠吠え」(講談社)がブレークのきっかけだが(注1)、同書を分析した『負け犬の遠吠え』が書かれた理由から引用してみると、

負けを認めてしまえば、つまらない対立は終わり、「勝ちだの負けだのということが、ほとほとどうでもいいことのように思えてくる」。

  無抵抗不戦主義の開き直りである。逃げるが勝ち、とはいうけれど、逃げることすらメンドくさいし、負けてしまおうホトトギスというところだろうか。勝ち負け、白黒するよりも違う価値観の土俵に超越してしまう、見事な戦術である。江戸時代、年貢の重みに耐えかねて、農民たちが村ごと逃げてしまった”逃散”の伝統は、連綿と続いていることが脳裏をよぎった(嘘)。


  一方の下流社会。”印税ウハウハ”三浦展下流社会〜新たな階層集団の出現」(光文社新書)に端を発した言葉である。同書のポイントは、「自分のポジションは、上流、下流のいずれに位置すると思うのであるか?」という、自らが自らをカテゴライズするという自薦的分類にある。

  他人から「おまえは、どうしようもなく下流だなあ」としみじみ指摘されると、はらわた煮え繰り返るが、自分で「俺は、下流社会の人間だから、エッヘン!」と、カミング・アウトするならば、爽快感すら生まれそうだ。開き直りの美学を超越した自虐的予防線の怯懦。したがって、「下流社会」の人々は、お金はなくても自由気ままに生きているというボヘミアン、という憧れをもって社会に受け入れられる、面もある(注2)。


  と、ここまでは、戦いに明け暮れるわ、時間に追われてしまうわ、の現代社会へのアイロニカルなユーモアをもって論じられる言葉である。しかし、多用されるもう一つのネガティブ・ワード「負け組」は、どうだろうか?東京新聞の「筆洗」(平成18年2月17日付)というコラムによると、

もとはブラジル日系移民社会で、第二次世界大戦での日本の敗戦を信じない「勝ち組」と、事実を受け入れた「負け組」の対立として使われた歴史用語

  トリビアである。真偽は不明であるが、中々に歴史的な所以のある言葉らしい。翻って、現代の「負け組」を評して、「彼らは、戦って負けたわけではない。戦わずして、ただ待っているだけの人間である、いわば「待ち組」でアル!」と力強くアジテーションする政治家さんもいる。彼らが、自賛の笑みを浮かべるほどに、気が利いたフレーズか否かは別にして、「負け組」という負のオーラを払拭するのに必死であることは、強く感じられる。

  「待ち組なんて、政権与党の経済失策を糊塗する言説だ、コノヤロウ!」、なんてな野暮は言わない。野暮は言わずとも、「負け組」という言葉には、前出二つの言葉には無い強い呪詛が感じられる。生活感覚として。

  ここに来て、俄然、冒頭に述べた言霊世界が現れてくる。無抵抗不戦、ボヘミアン、とオブラートに包まれること無く禁忌される言葉。口に出したら、現実に起こってしまうのではないのか?という言葉への畏怖。表裏なき直球勝負で逃れようが無いところが、潔い。


  なんて、ネガティブ・ワードに感心しているようでは、ダメなものである、としみじみ感じる雨上がり。


(注1)リンク先の。「『負け犬の遠吠え』が書かれた理由」を読むと、古くから時代のときどきに、顔を出す亡霊のような現象らしいですね。

(注2)80年代前半の「フリーター」憧憬が、なんとなく既視的にフラッシュバックします。

(本稿以上)


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(参考)本エントリで触れたもう一冊。
下流社会 新たな階層集団の出現
については、ブックオフで百円コーナー平積みになってから購入されるのが、良いのでは?というくらいの本です(私見)。