音楽:ストレンジャー・ミーツ・エスタブリッシュメント
1997年3月6日、事件は起こった。
朝比奈隆指揮するNHK交響楽団が、ブルックナー交響曲第8番ハ短調を演奏したのだ。そして、その記録は、コンパクト・ディスクという形で継承されて、21世紀に住まう僕らの耳に届けられる。
ついに、あの空前の大演奏が甦った−−−
〜ライナー・ノート
1997年初春。僕は、オーケストラという魔物の呪縛から逃れた。そして、広がる自由を謳歌できるものだと信じていた。美味いものを食い、美酒に酔いしれて、いい女を抱く。そんな世界を信じていた。皮肉にも、大学を卒業して未知なる社会人世界へ足を踏み出そうとしていたにも関わらず・・・。
オーケストラ、ひいてはクラシック音楽という魔手から逃れるため、耳を閉ざした。それは、楽しく、明るい、自由な生活だった。もちろん、こんな刹那的快楽がいつまでも続くわけはない、と頭の片隅で確信していたことは、事実であり・・・
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ブルックナー交響曲第八番ハ短調。クラッシック音楽ファンならば、誰もが好悪両極の感情を持たざるを得ない。まず、感情が真っ二つに割れる。
評者A : 天空から降りそそぐ神々しい音の結晶である。至高の芸術。奇跡。
評者B : 無駄に長いだけで退屈。金管がうるさい。はしゃぐな。
人間が他者に対して、評価を下すことは可能であるが、他者の感情を制御統制することは不可能であろう。すなわち、好悪という感情を戴く両陣営への説得は邪であり、無為徒労である。したがって、ここでその是非は問わない。
特異な曲である。CD二枚組が、当然至極の常識となっているほどの大曲だ。稀に、一枚に収録されている演奏もある。だが、一枚に収録されていること、ただそれだけが瑕疵であるとの胡散臭さが、これまた当然のように流布するという特異性を持つ。長ければ長いほど素晴らしいという、迷妄。
更なる特異性。すなわち、異端の指揮者がこの曲を演奏することだけで、クラシック音楽界に名前を大きく刻むことが、ままあるということである。シンデレラボーイの生息可能性。
セルゲイ・チェリビダッケ、ハンス・クナッパーツブッシュ、そして朝比奈隆。ブルックナー交響曲第八番ハ短調を語るにおいてのみ、巷説される指揮者だ。それ以外に語られるシチュエーションはない、と断ずるに異論があるかもしれないが、これ制御不能なる私の感情。
さて、朝比奈隆。
異端の徒である。システムの完成したクラシック音楽界に、音楽学校を経ずして登壇した類稀なる経歴の持ち主。貴種流離譚の逆も真っ青な異端。学問と芸術を往来するトリックスターだ、なんてチャチなものじゃない。異端というイメージを排除駆逐するまでに登りつめた音楽家だ。
異端の徒が、「日本」クラシック音楽界のメインストリームであるNHK交響楽団とともに特異なる曲を演奏したこと。楽団員は語る。
朝比奈先生
今日の事を我々全員は忘れることはないでしょう!
先生の大きな心 音楽への情熱
何よりも先生ご自身の衰えることのない向上心・・・・・・
(後略)
NHK交響楽団 全メンバー
〜ライナー・ノート
赤面たる蛇足、字余り。本演奏を聴くことで既にしてメッセージは届いている。
さて演奏である。NHK交響楽団のメンバーが、これほどまでに熱情的であったことには驚く。もちろん技術は日本随一の交響楽団だ。職能集団としての精鋭であることは間違いないが、その演奏に対して、感動が心の奥底から湧きあがる、とは必ずしもいえない。
しかし、その懸念たる敗因は霧消している。職能という氷体が、液体を経ることなくして、熱情、野趣に昇華された記録。これが、1997年3月6日の記録だ。
(本稿以上)