十年前の怨念、そして歩くこと。

  山に登り、異なる天地で身体を動かして、随分スッキリしたのだけれども。一日、後片付けや何やらに追われて、一息ついて、ギターでガシャガシャと遊んで(練習の姿ではなかった)いたら、なんだか憂鬱になり、ハタハタを焼いて夕飯を食った辺りで、エナジーが切れた感じ。

  今の私は、どうしても十年前の「堕落」の呪縛に憑かれていて、それに対しても、そろそろケジメをつけなくちゃならん、とムキになっているようだ。音楽から離れたこと。今となっては、昔の楽器には手を出せないが(物理的にも精神的にも)、他の楽器を基礎から学ぼうと思い、音楽の「音」の字を思い出そうとシャカリキになり、辿り着く前に疲れてしまっているのだろう。

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  昨日まで山道を歩きながら、昔、人に言われたことを思い出した。彼は、大学の体育実技「山岳」という実習合宿*1で、北アルプスで引率してくれた山岳部の人だ。曰く「山道を登っている時に、立ち尽くしてしまうのはダメだよ。そういうときは、何も考えずに、ルートファインディングと十歩先と三歩先、そして次の一歩を何処に置くか、ただそれだけを考えて、ゆっくりでも進み、歩くのさ」。何も考えず、って言うけど、随分と色々と考えているじゃあないか?と当時の私は思った。

  しかし、三年くらい前かな?少しわかった気がした。山道で、急斜面や遠く見上げるような登山道の先を目にすると、身体ではなく、頭のほうが疲れてしまい、見上げたまま立ち尽くしたくなる衝動に駆られる。次の一歩が出ないのだ。ここで、彼が言うところの「何も考えずに」ゆっくりでも歩く。「なるほど、ゆっくりでも歩けば、先に進むのだな」と思った。たしかに、立ち尽くしていては、先に進まない。もっともだね。

  今回、私はこの言葉を繰り返し、思い出していた。長くダラダラと続くガレ場や、風の通らない鬱蒼とした樹林帯を登りながら、眼前に迫る急登を仰ぐたびに、彼の言葉が頭に囁きかけてきた(というのは比喩だが)。私は、歩度を緩めながらも、意地になって、次への一歩を踏み出していた。身体は、疲れを訴えたが、歩みは止まらず、いつの間にか身体も無言になり、歩みも進んだ。で、下界に降りてきて、どうも調子が出ない。まあ、「地上ボケ」だと信じて、歩き続けなくちゃな。

  そして言葉をくれた彼。十年前、ヒマラヤはカンチェジュンガの烈風下で他界した。

(本稿以上)

*1:これは楽しかったなあ。生徒が30人くらい、中には電車男が背負ってるようなザック人や、借り物のサイズの合わない登山姿も居たりした。天気は、この合宿で久しぶりに晴天続きということで、奥穂高槍ヶ岳なんかにも登れた。あのとき撮影してもらったパノラマ写真は何処にいったっけな。