ライブドア問題〜エッジは刑務所の塀の上にあったのだろうか?②

遠い昔の前回の続きです^^

■経済敗戦

堀江さんが駆け回って、仕事をとってきた。特に大きかったのは、有名アーティストのWebデザインを手がけたこと。当時人気絶頂だった、小室哲哉関連のサイトデザインを任された。堀江さんが、知り合いの知り合い、といった具合につてをたどって受注に成功した。

〜〜オン・ザ・エッヂを創業した彼女が歩いてきた道 (3/5)

  1996年4月、東大生だった堀江貴文ら4人が「オン・ザ・エッジ」を設立。女友達の父親から都合した資本金600万円、マンションの一室から始まった。オタクの走りだったとも言われる彼は、インターネットという無限空間に、尽きない夢の広がりを感じていただろう。そして、彼の心には、ドラえもんのポケットが、未知なる世界への扉として輝き、横たわっていたのかもしれない。
  冒頭に引用したように、当時の堀江は、「駆け回って、知り合いの知り合いといった具合につてをたどり、仕事をとってきた」人間だった。汗みずくな青雲の姿であり、「社長日記」*1晩年のグルメにうつつを抜かす彼の姿は読み取れない。


 さて、前回の続きで(古くて忘れていましたよ)、ライブドア(前身オン・ザ・エッヂも含めて)の歴史と社会背景を重ね合わせてみよう。

1996年4月 : 有限会社オン・ザ・エッヂ設立

1997年11月:三洋証券、経営破綻(4日)
     11月:北海道拓殖銀行、経営破綻(17日)
     11月:山一證券、自主廃業(24日)
1998年10月:日本長期信用銀行長銀)が国有化

  マンションの一室で産声を上げて、ドブ板営業に従事する若き四人。彼ら、彼女らは、日本経済の片隅なるエッヂで奮迅していた。貧しくも夢溢れ、躍動的で充実した日々ではなかっただろうか?

  しかし、翌97年に日本経済に激震が走った。金融システム不安である。東洋一のディーリングルームを誇った三洋証券が、あえなく経営破綻し、続く北海道拓殖銀行の破綻により、磐石の確信たる都市銀行神話が崩壊した。そして、60年代の証券危機(山一ショック)において、国を挙げての支援で救済し、更なる高度成長を持続実現した象徴である山一證券の自主廃業。
  極めつけは、日本長期信用銀行の国有化だ。これは、瑕疵担保条項という屈辱的付帯条項を盛り込んで、外資系投資組合に売却される端緒となった。日本の国力では、為す術が無いという絶望が顕現し、日本社会に蔓延したのである。
  社会生活への影響は、比較するべくもないが、情緒・心情的な影響は第二次大戦における敗戦に等しいものがあったに違いない。経済敗戦である。

 このとき、「オン・ザ・エッジ」の堀江たちは、どう感じただろうか?敗戦の焼け野原で、文化、教養、知性は無力であるとの諦念に至ったことは、想像に難くない。これからも語り継がれるであろう堀江の「カネで買えないモノはない」という身も蓋もない”箴言”。退廃的ではありながら、直情直径のリアリズムが滲み出ているのは、経済敗戦の焼け野原を体験したからだと思う。

(本稿続く)