絲山秋子から、日常性を考えてみた。
昨日の続きで、絲山秋子氏が芥川賞を受賞されたという話です。新聞報道によると「(芥川賞受賞)は喉に刺さった小骨、あるいは足の裏についた御飯つぶが取れたような気分です。今回、受賞できなければ芥川賞、直木賞の最終選考にノミネートされた時点で、辞退するつもりでした」と、受賞後に語っていたそうです。昨日も述べましたように、今回も含め芥川賞3回、直木賞1回と候補になっていたのだから、もっともな言い分だと思います。
さて、彼女の物語世界について語りましょうかね?と思ったのですが、残念ながら彼女の小説については、大きく語るほどのことを持ち合わせてはいません。読んだ限りでは、「どの作品も傷を負った人物が出てくるなあ」という印象。ミーハーな私なので、芥川賞受賞を機に読み返してみようかね?と思っているところです。
そこで、私が彼女を知るきっかけになった雑誌記事から、絲山秋子を考えてみることにします。AERA.04.12.13号「ゆっくりルーティン主義〜規則正しい型のある生活」から引用しますと、
彼女(絲山秋子)が業界で「締め切り順守率ナンバーワン」と噂されていると知る。(中略)生活も絵に描いたようなルーティン重視。午前7時に起きて、掃除、洗濯、メールチェック。そして午前中はエッセーなどを書く。すべて午後から書く小説へのウォーミングアップのためだ。
ルーティンとは、ルーティン・ワークという言葉からも判るように、突発的ではなく恒常的なという意味でしょう。この記事全体を通じては、「規則性に基づく生活」という意味合いが濃く浮かび上がってきます。ルーティン主義とは、非日常に対する日常の大切さですかね?
小説家と聞くと、日常性を忌避して、常に奇異なる物事を捜し求めるというイメージがあります。毎晩、腰が抜けるまで酒を飲むとか、砂漠をオフロードバイクで疾駆するとかですかね。しかし、絲山秋子は、平々凡々な日常性に根を持ち、地に足をつけた確固たる生活から、物語を紡ぎだす。
私は、この記事を読みながら思ったものです。「世の中、怖ろしいほどの勢いで情報が流れ、欲望を喚起しているけれども、一度、立ち止まって自分や世界を見つめ直してもよいのではないかな?」って。まあ、御爺さんみたいと言われればそれまでなのですけど・・・。
そして、上記記事の別の部分、フランス哲学の研究者である内田樹さんの言葉が印象に残りました。
快楽はある種の意識した日常の反復性のなかにある。
昨今、マンション事件、ライブドア問題を見ていると、日常性を大切にしようじゃないかね?っと切に思います。毎日が祭り(ハレ)だけだったらつまらない。日常(ケ)があればこそ、祭りも盛り上がりが高まるというものです。
(本稿以上)
袋小路の・・・
絶妙な距離感!