石版に文字を刻むことを考えた。

  世の中、デジタル化の進展に伴い「ネット依存症」という病気(?)の問題が指摘されています。架空の人格で、ネット上でチャットを行っているうちに、現実と仮想の区別が判然としなくなってしまう、というような症状。例えば、現実には普通のサラリーマンなのに、フェラーリに乗って、高額な服を着て、豪華なものを食べるヒルズな社長をヴァーチャル世界で装う。
  これだけなら、実生活に問題がないかもしれないが、この仮の姿が現実を侵食してしまい、フェラーリはともかくとして、服や食事は現実のキャパを超えて、お金を借りてまで仮装してしまう。怖いものですね。私も気をつけたいと思います。

  さて、the nikkei magazineという一種のフリーペーパー(注1)に、石川九楊さんという方が、「書く」ことについて文章を寄せていました。

鉛筆で「書く」ときは、筋肉や神経を複雑、繊細に働かせつつ、文章の正否を推敲しているのに対し、パソコンは必要な文字を視覚情報により選択し、単調に「打つ」だけ。そこには深い思考は伴わない。

  ネット依存ならぬ、キーボード依存。このことの有する悪癖は後に述べますが、私の「書く」という行為について、まず考えてみたいと思います。
 
  私もネット宇宙の片隅で、ブログというものを書き始めて、もうすぐ一年経ちます。指摘にあるように、パソコンで「打つ」ようになってから、ある種「視覚情報の選択」という行為が中心になっている気がします。たしかに、質はともかくとして、量だけは大量に「記す」ことが可能になりました。しかし、書いているという実感も希薄になっていることの虚しさ。
  使っているキーボードが、タイプライターみたいな打音が響く、メカニカル・タッチのものであるせいか、思考して打ちながら、耐えざるカシャカシャ音がつきまとう。それが、大袈裟に言えば、書いているという実感かと問われたら、否定せざるを得ない事実。

  以前、紙のノートに日記(というか覚書)をボールペンで書いていました。いや、非常に筆圧が高い人間(注2)なので、文字を「書く」というよりも文字を「刻む」という状態の方が現実に近かったものですが。しかし、パソコン(というよりキーボード)に慣れてしまい、紙世界からは遠ざかるばかり。そこで、石川氏は懸念を抱かれています。

紙と筆記具による日常的な手触りがないから、社会に対する現実感や遠近感、立体感を喪失してしまう。小学生が人を殺したり、市場主義の行き過ぎで耐震偽装問題が起きたり。

 うーん。後半の例示は、素直に首肯できないところもありますが、言わんとしていることはよく判ります。
 
  紙というブツに文字を刻むこと。物理的に深々と刻むこと。気が弱くなっている時には、筆圧が下がり、頼りない刻みかもしれない。ハイテンシヨンな時には、文字が大きくなり、罫線を踏み越えて、文字が踊り狂うカーニバルなこともあろう。
  あるいは、好きな女性に振られてしまったときのページには、涙で滲んだ文字が弱々しく連なっているかもしれない。物理的なモノとしての文字。記憶や感情を呼び起こす媒介としての文字。


 ブログ、2ちゃんねる等の掲示板、あるいはmixiなどのソーシャル・ネットワーク・サービスが爆発的に普及していて、それに伴いキーボード経由モニター着の文章が飛躍的に拡大しています。石川氏の警鐘に、文字を「書く」ということを考えさせられた私です。

(注1)
宅配される日本経済新聞に、月一回挟み込まれているフリーペーパーです。駅などの店頭販売では、手に入れることが出来ません。豪華な広告が、眩しいペーパーです。例えば、デカデカとしたプライベート・バンクの宣伝広告の片隅には、「金額によっては口座開設できないことも御座います」というような文言が書かれていたりします。ウヘー。

(注2)
私は、シャーペンを使うことが出来ないほど、筆圧の高い人間です。一冊のノートを書き終えると、筆圧効果でノートの厚さが約二倍になってしまうのは、おもしろいものです。

p.s.
「社会に対する遠近感」
なんかカッコいい言葉ですね。
本当のところ、この言葉を気に入ってエントリを書いたのです^^。

(本稿以上)