甘え、連帯の末路
かつて祖国を追われざるを得なかった「よど号事件」の実行犯は声明を出した。
「われわれは明日のジョーである」
漫画「あしたのジョー」には、明確な敵はいない。闘ったライバルたちは、ことごとく友愛の対象となる。祖国を追われたハイジャック犯人たちは、この敵無き物語のヒーローに、自己を投影することで、自らの寂しさを紛らわせたのだろうか?あるいは、最後の最後まで、連帯を求愛して、泣き叫んだのだろうか。あるいは、俺たちは真っ白な灰になった、というヒロイズムの結語を心に込めて、自らに叫んだ自己愛だろうか?
1970年3月31日に共産主義者同盟赤軍派が起こした日本航空機に対するハイジャック事件。
「あしたのジョー」は、1967年末に発表されている。
1968年1月1日号(発売日は1967年12月15日)から1973年5月13日号にかけて連載された。(中略)よど号ハイジャック事件では、ハイジャック犯が「われわれは明日のジョーである」(原文ママ)と声明を残したことでも知られる。
しかし、同時期に「ゴルゴ13」が発表されていることは、あまり知られていない事実だと思う。
1968年(昭和43年)10月(1969年1月号)から小学館「ビッグコミック」誌で連載が開始され、2006年現在も連載中である。
ハイジャック実行犯は、「ゴルゴ13」を選ばず、「明日(あした)のジョー」を選択し、俺たちはジョーである、と叫んだ。私は、そこに彼らの悲痛なる心と甘ったるさ、非情になるならば、彼らのみすぼらしさ、堕落を禁忌しようとする愚かさを感じてしまう。
そして、今、どこかで甘い音色なエレクトーンが聞えてくる。音楽という苦行を知らずして、舐めきったるバカヤロウの音色が。それは、歌声なんかではない。音でもない。聞えてくるのは、ただの「オトノイロ」。だが、世間は広いから、「色」だけで、なよる者もいるのだろうな。・・・と秋風に頬を撫でられて思う、月の夜。そして、月光。
(本稿以上)
ブログという怪物
※はじめに
本文は、「id:noon75はSNSに引き篭もるべきである」と題して、書き綴ったニ部構成テキストの第二部を大幅改変して公開する文章である*1。削除した第一部は、id:noon75氏の書いた■id:keroyaning2にはブログ閉鎖を薦めるへの抗議の言葉*2を、彼が私を評して言うところの「自らの愚かさにまったく気が付かないフリをする開き直り」で、罵倒し、揶揄して書いたものだが、それは掲載しない。
掲載しない理由は、というと、大きく分けて三つある。
一、id:noon75氏が、私に対して言及した最初のエントリ■批判と罵倒の違いの一部について、思い直すところがあったこと。ただし、上記「(略)閉鎖を薦める」については、徹頭徹尾、見当外れも甚だしき一方的な批判であり、不快感は未だ消えずに残っていることは明記しておく。
二、私はかつてhttp://d.hatena.ne.jp/keroyaning2/20060525/1148508226において、「怒り、恨み、悔しさ。負の感情で発する言葉は、怖ろしい呪詛を纏う。発する者が意識せざるとも。」と書いた。これは、他者に向けて、私の思いを告げた文章である。しかし、私自身が、今、同様の行為を行おうとしていることに気が付き、恐怖を感じているからである*3。
三、id:noon75氏の「けろやん。ブログ。の中の人へ」という第三弾エントリを読んだこと。
以上の理由で、当初アップする予定であったテキストの第一部を削り、改変した第二部を以下に書く。
(本文開始)
私のブログに対する考え方。当然のことながら、ブログは理論的には全世界に公開されるものである。したがって、ブログの書き手は、そのことの意味を深刻に考えなければならない。また、エントリのコメント欄を開放していれば、そこには、「補完する言葉」、「善意の批判」、「悪意ある批判」、「悪意の煽り」、「愉快犯の遊び」等が掲載され、ブログの書き手の目に入り、感情の起伏をもたらす。時として、コメントの書き手が「善意の批判」を心に深く刻み、書き込んだコメントも、書き方、あるいは読み方を誤れば、善意が悪意に変換され、受容される不幸が生じるかもしれない*4。
これまた、当然のことではあるが、書かれたエントリ及びコメントは、いずれも平面モニタに表示された文字に過ぎない。エントリ、コメント、いずれについても書かれた意図を正確に把握することは困難である。ましてや、筆圧を感じ取ることは容易ではなく、書いたときの書き手の心理状況(例えば、美味いもの食った後であるのか、下痢で腹を壊してキーボードを叩いたのか)を把握することは、ほとんど不可能に近い。言い尽くされて、繰り返すも野暮であるが、現実世界で対面する場合、対峙した相手の心の機微を窺い知ることは、(多少の労力を伴うにせよ)ある程度可能であろう。
さて、人は楽な道に進みたがるものである。例えば、コメント欄を閉鎖する(ここでは、コメント欄を閉鎖しているブログの書き手を揶揄する意図は無い)ことで声を遮蔽する。しかし、ソーシャル・ブックマーク(SB)で、先に述べた雑多なコメントが寄せられる。だったら、眼をつぶればいいじゃないか。たしかにその通りである。
しかし、眼をつぶってしまったのならば、一つのエントリに対する一つ一つのコメントが、当該エントリへの補完にならないのみならず、ブログの書き手及び読者の知識、知恵を増大(あるいは減少)させ、心情を豊かに(あるいは貧しく)させていくという、あるべきブログの姿*5に背を向ける行為だと思う。たとえ負の方向に向かったとしても、ブログの書き手及び読者は、そこに学ぶべきことはあるのではないか
これが、mixiなどのSNSの世界ならば、各種フォーマット化された制約下において、「悪意」、「煽り」等の”負”は淘汰され、「補完する言葉」、「善意ある批判」のみが残存表示され、平和で”有意義”な議論が展開されるかもしれない。しかし、私は、それがネットワークの完成形だとは思わない。あまりにも貧し過ぎる世界ではないか。
私は、悪意、煽りのない無垢なる世界に、健全でタフな花が咲くとは考えない。善意と悪意を見分け、愉快犯に対して時に笑い、悪意ある煽りに耐え、ブログの書き手はブログ世界において成長する*6。そのことこそが、飯の種にもならず、機会費用を浪費してまで、ブログという”悪夢”を書き続ける理由だと、私は考えている。
さて、長くなったが、最後。次に書くことはid:noon75氏へのイヤミ、あるいは皮肉ではないことを是非とも理解していただきたい。
氏は、自らのブログに寄せられたコメントの書き手(SBにおけるものも含む)に対して、しばしば、ブログを書くことを薦める。しかし、先に記したように、ブログとは、全世界の衆人に晒されるものであり、意義あるコメントのみが寄せられるわけではない。もちろん、その危険性をあなたは、確実に理解しているだろう。しかし、書くことを薦められた人間全てが、理解し、覚悟を決めて書き始めるだろうか?
私は、ブログを書くことを薦める言動は、あまりに安易だと思う。かつて、悪意に満ちたコメントが溢れかえっている(いた)ブログを読んだことがある。そして、当該ブログ上で、後に綴られたエントリから類推するに、彼(彼女)は、ブログ世界での重荷を背負ったまま、現実世界に立ち返らざるを得なかったと思われる。そこまでして、ブログを書くことに意味があるのだろうか。私は、ない、と考える。
繰り返しになるが、対面であれば、毒にも薬にもならないコメントも、ブログという極めて「不自由」な世界では、いともたやすく鋭い毒針に転じる可能性がある。その意味において、ブログを書くことを安易に*7薦めることに対して、あなたを批判する。あなたが読めるということは、同時に、不特定「膨大」多数な人間の目に晒されるということだ。
以上が、私の考えるブログというツールである。自戒を込めて、「無料(ただ)より高いものはない」、と結ぶ。
(本稿以上)
id:noon75氏へ。なお、私が本ブログ等で使用する「(´・ω・`)」という顔文字は、記号ではなく、「文字」で表すことの出来ない感情、意味を付与したものであり、アドバイスをありがたく承りながらも、使用を続ける。また、
一日出かけていてちゃんと読むのが遅れたが、よい文章だった。
ちゃんとした文章書けるじゃないか。
「w」や安易なイヤミを使わなければ、もっとパワーが出たと思う。
あなたはいつからブログの書き手であることを止め、ブログ文章指導員になったのだ?”ブロガー”であると自覚するならば、エントリを書き綴るべきだと、私は考える。気に障ったらすまない。これはイヤミではない。本心だ。
したがって、野卑たることは承知の上で、冒頭の私の言葉を繰り返す。
■批判と罵倒の違いの一部について、思い直すところがあった。
以上。
社説・春秋
春秋(9/14)
秋の雨にも色々あって、夏の名残の夕立は秋驟雨(あきしゅうう)、夏果ててすぐの小雨は秋微雨(あきこさめ)。長雨は秋霖(しゅうりん)、秋黴雨(あきついり)という。涙を灑(そそ)ぐ寂しい灑涙雨(さいるいう)もあれば、霧の小便と呼ぶ地方もある。詩人の高橋順子さんが文を書いた写真集『雨の名前』は、そんな色々を伝えてくれる。
で、どこに持って行かれるのかな?と思ったら、最後は、
5万余の観衆が立ち上がり送った拍手は松井選手の欠場中の頑張りに向けられたのだろう。
いや、始めと終わりを茶化すわけではなく、ちょっと展開にビックリしたのです。ところで、「菜種梅雨→梅雨→雷雨、そして・・・」でも書きましたが、雨に関する言葉は豊富ですね。驟雨という言葉が気になり辞書を引いたら、「夕立や雷雨の類」とあり、勘違いしていたことに気が付きました。横に目をやると、「愁雲:うれいを感じさせる雲」という言葉が目に入り、東の空を眺めたら、薄い雲を突き抜ける太陽の光が眩しくて。
なにはともあれ、天気が良いので低山ハイクに行ってきます。雨が降リ出したら、先日購入した防水装備のテストをしてみよう。
(本稿以上)